遠距離介護ダイアリー

東京と東北間での遠距離介護は突然始まりました。私はホームヘルパ ーを25年以上やっており色々な在宅介護を目の当たりにしてきました。人間誰にでも訪れる介護の話を日々綴っていきたいと思っています

わか子姉さんの死

わか子姉さん(仮名・71歳・独身)

大腸がんで人工肛門と腎瘻も増設し、肺にも転移がみられていた。

実年齢より若く見え、全然年寄りではなく姉さんだった。

 

わか子姉さんはもともと大富豪のお嬢様。

自由奔放で好きなことだけをやってきた人。

癌が肺に転移していることを知りながら、タバコもやめようとしなかった。

 

f:id:maple-enkyorikaigo:20190713214119j:plain

 

わか子姉さんの弟さんは、そんな姉が大嫌い。

 

大きな敷地内に、母とわか子姉さんが住む本宅と弟家族が住む別宅があった。

母親も高齢となり介護が必要な状態となって、いつの頃からか、わか子姉さんが

母親の介護をしていた。

 

元々、気がすすまないことはやりたくない性格。

プラスして、おそらく癌の発症で具合が悪くなり母の介護がいい加減になっていた。

 

そんな姉を許せなかった弟は、母親を自分が引き取って介護することにし、

わか子姉さんを治療のため入院させた。

そして退院後は自宅には戻さず、アパートで一人暮らしをさせ、生活保護を申請し

自分たちとのかかわりを絶った。

 

そんなわか子姉さんにヘルパー派遣を民間事業所のケアマネさんが依頼してきた。

ここから私たちとわか子姉さんとの付き合いが始まった。

 

訪問開始当初はとても元気だった。

喋り方はぶっきらぼう。顔の表情は、怒ってないのに怒っているような顔つき。

ちょっと損な顔。

でも笑うととってもかわいかった。

 

訪問時に色々な話をしてくれた。

「若い頃のお仕事は何だったんですか?」

「遊んでた」

「遊んでた?」

「そう。東京で遊んでた。」

「どうやって食べていたんですか?」

「親の仕送り。」

 

若い頃の話になると、はっきり教えてくれなかった。

どうも、暴力団系の方たちとのおつきあいがあったような。

 

とにかく姉御肌でかっこいい。

 

でも、もともとの育ちは良かったから、お茶の師範の免許があったり、

お花もやっていたとの事。

 

そしてなにより、私たちの心に響いたのが

「ありがとね」

の言葉。

食事の準備ができて、お出しすれば

「ありがとね」

食べ終われば

「ご馳走様。美味しかった。」

援助を終了して帰宅するときも、必ず

「ありがとね」

 

わか子姉さんの本当の育ちの良さが十分にわかった。

 

最初は服薬による抗がん剤治療をしており、服薬のためにご飯も食べなきゃ

といって、毎日3食を完食されていた。

そのうち、食事を残こすようになり、ヘルパーの調理への不満をケアマネに

訴えるようになった。でもこのころから食べ物をあまり受け付けなくなって

いた。

薬の副作用で、味がわからなくなり、何を食べても美味しくなくなっていた。

そして固形物を一切受け付けなくなり、食事の形状もほぼペースト状のもの

を準備して、ヘルパーみんなで工夫してわか子姉さんが一口でも多く食べる

事ができるように一生懸命頑張った。

 

最後の入院間際は食べていないのに、下痢が止まらなくなった。

皆で病院受診を勧めても、頑として

「行かない」

あのぶっきらぼうな言い方で拒否された。

 

わか子姉さんとヘルパーとの根くらべのようになっていた。

 

何とか入院してもらうことができ、もう一度元気になって帰ってきて

ほしかった。そう信じていた。

入院中に腸閉塞を起こし、7月4日に開腹手術も行って、今度こそ

元気になると思っていた。誰もがそう思って回復を祈っていた。

 

けさ、一番に鳴った電話。

わか子姉さんのケアマネさんからだった。退院かと思って話を聞いたら、

訃報であった。

 

ぶっきらぼうなのに、なぜか憎めない人。

つっけんどんなのに、嫌にならない人。

 

もう一度会いたかった。

もう一度話がしたかった。

 

これが私だけではなく、事業所のヘルパーみんなが思った事。

きっと天国からもあの

「ありがとね」

の優しい言葉を、私たちに言っていると思われる。

みんな聞こえてるはず。

 

こちらこそ、わか子姉さん

「ありがとね」